I'm so happy !

ただの俳優のオタク。

短い小説 あぱるとのなかのこいびとたち

 

闇とジンとライムと痣

 

 

また夜が来た。深い深い闇のなかで、あたしはグラスに入ったジンを舐めた。また夜が来てしまった。狭いシングルベッドでは、名前も知らない男が寝ている。床に転がったライムを手に取り、ナイフで半分に切る。そのままグラスに絞った。柑橘類のにおいは、セックスのあとの男のにおいに似ている。
グラスを持ってベランダに出た。空には欠けた月が浮かんでいる。
「あんたまた男連れ込んでるでしょお」
隣から声がした。
「うるさい、あんたにだけは言われたくない」
「作品に詰まるたびに男連れ込むのやめなさいよ」
ねえベラちゃあん、と隣の部屋のおかまが腕の中の猫を撫でた。猫は嫌がって身を捩って鳴いた。
手の中のグラスを回す。
「いいもん飲んでるじゃない。寄越しなさいよ」
猫を離すとにやりと笑っておかまは笑う。しゅっとした頬に笑窪が刻まれる。あたしはおかまのこういうところが好きだった。
「つまみないの」
おかまは眉を上げて部屋に戻る。あたしも部屋に戻ってジンをボトルごと持ってきた。ベランダの床は冷たくて気持ちがいい。
おかまが差し出したミックスナッツをひとつかみ口に放り込んで、代わりに差し出されたロックグラスにジンを注いだ。半分残っていたライムも絞ってやる。
「おいし」
おかまはおかまらしくしなを作ってそう言う。
おかまの目元には新しい鮮やかな痣があって、あたしはそれを無視した。
「どうせ寝れないし付き合ってあげる」
「付き合ってください、でしょ」
高らかに笑うおかまを横目に、あたしはジンをからりと飲み干した。


男っていうのはカラスみたいなもので、女子のひとつの輝きに寄って来る。あたしはそう思っている。あたしは夜行性で、夜に生きる男たちはみんな鳥目だ。だからあたしはモテる。弱い光でも、夜だったら大丈夫。分厚い遮光カーテンの中で、あたしはひたすら夜を待つ。
隣の部屋のおかまはふくろうみたいなやつで、鳥のくせに夜目が効く。だからあたしの本性を知っている。でも自分のことはよく見えないらしく、しょうもない男と暮らしている。大きなカラス。鋭いくちばしでふくろうを突く。
壁になにかが叩き付けられる音で目を覚ました。ぼろアパートの壁はうすく、壁に掛けられたゴッホが揺れた。夜のカフェテラスだ。深い藍に浮かぶ黄色の光。ゴッホの黄色は生命の色がする。
怒鳴り合いの声が聞こえて、あたしはベッドから身体を起こした。
時間を確認すると夜の十一時だ。また夜が来た。
床に散らばった洋服から適当に引っ張りだしたショートパンツとTシャツを身に着けた。ベランダからにゃあん、と猫の声がする。
「お前、逃げてきたの」
窓ガラスの向こうのベラはにゃあん、もう一度鳴いた。
隣の部屋のおかまにはしょうもないしょうもない浮気癖があって、そうして浮気をしてはカラスから殴られている。鮮やかな痣が散らばったおかまの背中はきれい。おかまがいうには、浮気は愛情の確認で、暴力は依存の確認なんだそうだ。あたしはおかまをマゾだと思っている。
ベラを連れて夜の街に散歩に出た。ベラは塀の上をずんずん歩く。長いしっぽが左右に揺れる。ベラのはるか上に欠けた月が現れる。
「きれいな月だねえ」
あたしは気分がよくなって、コンビニに寄って缶チューハイを買った。飲みながらベラとどこまでも歩いた。ベラは猫らしく猫道を進もうとするので、あたしはそのたびにベラを呼び止めなきゃならなかった。
夏の夜は水の中みたいだった。蒸し暑くて動くと囚われる。毛玉であるはずのベラはなぜかとても元気で、あたしのほうが疲れて、コンビニに三回も寄った。缶チューハイはエキセントリックな味がする。
散歩に疲れてアパートへ戻ってシャワーを浴びる。開けっ放しだった窓から風が入ってくる。夏のにおいだ。
ベラはアパートについた時点で猫道に消えた。きっと下の階の住人にでも餌をもらいにいったのだろう。あたしの部屋には絵具と酒しかないことをベラは知っている。おかまの部屋に絶望と愛情しかないことも。
あたしは月を見ながら絵を描いた。隣の部屋は静かだった。
夜はどこまでも深くなっていく。あたしはおかまのことを考えた。新しい痣は何色だろう。痣が重なって色が濃くなることを、あたしはおかまの身体ではじめて知った。
けっきょく朝まで絵を描いて、あたしはカーテンを引いて寝た。

起きたらまた夜が来ていて、あたしはおなかが空いていたのでごはんを食べに行こうと外に出た。あたしの部屋のキッチンは絵筆を洗うためにあった。それと氷を砕くために。あるいはライムを切るために。
軽食もだしてくれる気に入りのバーで、サンドイッチを食べてジントニックを飲んだ。サンドイッチにはハムとチェダーチーズとみずみずしいレタスが挟まっている。二杯目のジントニックを飲み干したところで、カラスに声をかけられた。あたしは、おとなしく啄まれることにした。
あたしの部屋は汚い。絵具と酒と、ゴッホの絵が一枚しかないのに。今回のカラスは事が終わるとすぐ寝てしまった。あたしは床に転がったウイスキーの瓶を取る。
きょうも月がきれいだった。ウイスキーを舐めて、耳を澄ます。隣の部屋からは何も聞こえない。おかまは寝てしまったんだろうか。あたしがおかまについて知っていることは少ない。けれど、カラスと遊ぶたびに慰めて(おかまはそうは思っていないだろうけど。「なあに、気持ち悪い。どうしてあたしがあんたみたいな女慰めなきゃいけないわけえ?月がきれいだから、お酒を飲みたいだけよ」)くれるから、きっといいやつなんだと思う。おかまはあたしのことをかわいそうだと思っていて、あたしはおかまをかわいそうだと思っている。

セックスするたびにまぶたの裏におかまの痣が浮かぶ。おかまは痣を愛だと言う。目に見える愛なんて、幸福よ、と。あたしはおかまが少し羨ましかった。肉体をいくら重ねたって寂しいのに、愛がどうしたら目に見えるのだろう。あたしにはわからなかった。あたしには、おかまの痣はただの傷にしか見えない。
氷が溶けて、ウイスキーがどんどん薄まる。カラスの寝息。あたしは寂しくなった。隣に男がいるのに。


久々に大学に行った。大学にはたくさんの人がいる。美大には正しい人なんていないのに、みんながみんな自分を信じて生きている。その中にいるのはとても安心する。正しい世界、そこに生きるあたし。ちぐはぐな空間。
講義を聞くのは楽しい。知らない事を知る事。知識はあたしを安心させる。
「珍しい子がいる」
喫煙所でたばこを吸っていると、友人が来てそう言った。
「久しぶり」
「あんた単位大丈夫なの?」
友人はからりと笑う。舌に刺さるピアスが光った。
「さあ」
あたしは笑って、友人も笑う。
空が高い。日の光はあたしを惑わせた。
「目に見える愛って何だと思う?」
友人は一瞬驚いた顔をして、たばこに火をつけた。
「さあ、人によって違うんじゃない」
ちなみにわたしはお金かな、そう言ってほほ笑んだ。
友人は、六本木で夜、働いている。


アパートで、あたしは絵を描いている。隣の部屋からは、騒々しい音が聞こえている。
窓の外には夜が来ていて、あたしはジンを舐めている。
いつもの夜だ。
キャンバスには、愛が広がっている。あたしの描く愛が。たくさんの、さまざまな、救いのある、救いのない、愛たち。
きっとしばらくしたらおかまがベランダに現れるだろう。あたしはまたジンを分けてやる。
いつもの夜だ。


にゃあん、と猫の鳴き声が聞こえた。